昭和48年3月10日 朝の御理解



御理解第59節、「習うた事を忘れて戻しても、師匠がどれ丈け徳をしたと云う事はない……」

一つの教えを頂いたとします、その教えが段々行じられて参りますその一つの教えは、いよいよ深いものになり、いよいよ広いものになり、勿論、その教えを広く深く、自分に身にも心にも、頂いていく事は、おかげも広く深くなる道理であります。
 習うた事を忘れて、それを戻してしもうたのでは、師匠は喜ばん例えば教えを受け、そうだなと、心に合点のいくおかげを頂いたらその事を本気で守らせてもらう、行じさせてもらう。
 金光様の御信心はね、あれも覚えんならん、これも覚えとかならん、とゆう事じゃないです、もう馬鹿の一つ覚えとゆうのがありますよねえ、もう本当に、それを、しんから一つ覚えに覚えておいてそれを行の上に現していくとね、その事は、その事が又次の事を教えてくれる、いわゆる仕事が仕事を教えてくれる、とゆうようにです、もう、それは確かにそうです。
 そうゆう風に頂いてゆかなければ、そうゆうおかげを頂く事によって初めて、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び とゆう事になるのです。
 詳しゅう、あれも知っとる、これも知っとる、と 詳しゅうなったっちゃ、それがひとつも、育っていっておらないとするなら、やはり神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜んで下さるとゆう事にならない。 ですから一つの事が本当に行じられて、それが段々、深く広くなってゆくとゆう事はです、教えの全てがです、日々頂いておる、んならもう、毎日の御理解は頂かんでよいとゆう事はない、その教えの全てが、自分の命のようにしておる、その教えを育ててくれる事になってくるのです。
 例えばここで成り行きを大事にする、といったような事がです、ね、現在合楽で言っておるような事に、なってきておるんですよ。
 昨日の御理解なんかは、いわゆる合楽の信心を、もう極めた上にも極めた、とゆう感じだったですねえ、まう云うならば、今迄の合楽の信心では、もう最高の極限をもってですね、昨日の御理解を頂いておる訳です、七、七、四十九から十引けば三十九になるとゆう、あの御理解です。
 ですからね、もう本当にです、もう一つの事がね、本当な事がですよ、本当な事が分からせてもろうて、その本当な事を日々行の上に、現していっておるとその事が、その次の事を又教えてくれる、段々広くなっていく、深くなっていく訳です。
 だからおかげも勿論、広く深くなっていく訳ですけれども、例えばそんなら、皆さんの場合です、もしおかげが広く深くなっていないとするなら、途中でチョン切れよる訳です、頂いた事をお粗末にしよる訳です、もう、それに撤していく事。
 私は今朝目覚ましのおかげを頂いて、布団の中で、もう本当に、一番に実感する事は、今日もお生かしのおかげを頂いておるとゆう事です。 そしたら、「四〇一ヨンレイイチ番」と頂いた。
 そして私は、翻然と心の中に感じた事なんですけれども、はゝあ例えば、今日もお生かしのおかげを頂いてありがたい、とお礼を申し上げるとゆう事はです、例えば生きるとゆう事の、執着といったようなもの、じゃないですね、「今日もお生かしのおかげを頂いて有難い」とゆう事は。
 その例えば事がです、段々深いものになっていく、広いものになってゆく訳です、今日もお生かしのおかげを頂いておるとゆう事だけでです、問題が問題でなくなってくるです。
 どんなに頭が痛かっても、辛い事があっても、その辛い事がです生きておるしるしであると、ゆう事が分かってくるのですから
 昨日、午前中の奉仕の時に、ある女子青年の方が、こゝでお届けをして、「先生今朝方はもう、本当にいやないやなお夢を頂きました」とゆうのです。
 とゆうのは、どれだけおるか分からない程しの犬が、いっぱい居るおしらせだった。 まあ仏教的に云うと、慾悪、煩悩とこう云う犬のおしらせは煩悩と云う、もうその 煩悩とゆうものをです、仏教辺りでは、慾悪と同じに見ておる訳です。 おかしな話ですよねえ、今の合楽の信心で頂くと、…… 勿論 慾悪はいけないでしょう、教祖はそこんところを、我情我欲と仰った。
 我情我欲を離れてとゆう事。 情があっちゃならんとゆうのじゃない、慾があってはならんとゆうのじゃない、その情も慾も又、おかげだとゆう事、只それが我情になってはならない、我欲になってはならない。
 昨日私は、その方にいろいろ話した、最近は、云うなら性のモラルとゆうような事がです、非常に乱れた。人間である以上、人間の道とゆうのは守らなければならない、いわゆる性道徳なんです。
 けれども、性そのものは有難いものだとゆうのです、道を間違えずに頂けば、それは有難い事なのだ。 だから私は、お道はです、その慾悪はいけないにしましても、煩悩とゆうのは、これは有難い事であってです、これは生きておるしるしとして、お礼を申し上げねばならない事だと思うです。
 私はその事を、その方に伝えさせて頂き乍ら、本当に金光大神の教えの素晴らしさに、もうこゝ数日間、金光大神の偉大さとゆう事を、度々言葉に出しますけれども、その偉大さに、もう恐れ入ってしまうです。
 あゝもういやだいやだ、本当にこんな煩悩に責め立てられてと、しかもその煩悩は、悪いもののように思うて、罪悪視する、いわゆる我心で払う事もあれば、犯す事もある。
 金光大神はね、そうゆう場合にそれを、例えば性欲でも、御性欲として頂けばと仰る、又それがです、本当に私共、分からない時には、本当にこうゆう烈しい、慾とゆうものがです、自分ながら嫌になる程に感じたけれども、それは生きておるしるしなんだから尊い事、生きておるしるしとして、お礼を申し上げる事。
 そうゆうような事も頂いておりましたから、例えば、今朝の目覚ましのおかげを、今日生きておるとゆう事がです、お生かしを今朝も頂いておる、とゆう事が有難かった、一段と有難かった、そしたら四〇一番と頂いた。 はゝあ、これはもうですね、私共が日々、お生かしのおかげを頂いておる事が、本当に有難うなってゆかんとですね、死生の安心は生れないとゆう事を、今日は分からせてもらいました。
 死ぬる時には何とか、大往生のおかげを頂きたい、言わば、あの世に誕生する事だから有難い事だ、いわゆる死生の安心を得るとゆう事が、宗教の眼目なんですよね、大体は、…… 人間の一番大事な事なんです、死ぬるとゆう事は。
 その死ぬる事がです、恐怖であったり、悲しい事であったり、とゆうところにです、いわゆる死の恐怖とゆう事になってくる訳ですけれども、そこのところのおかげを頂く為にも、生きておるとゆう事の事実をね、思うたら、もう有難うなる。
 そこで、痛かっても痒かっても、生きておるしるしであり、慾が起てくる事によってもです、それは生きておるしるしだ、死んだらもう慾なんか無いのです、熱もない、腹も痛まん、だから、熱のある事も、腹が痛む事も、有難い事だとゆう、自分でも嫌になる程、心の底から慾が湧いてくるとゆう事もです、それは生きておるしるしであるから、お礼を申し上げねばならない、とゆう事になる。
 生きておるとゆう事が、段々有難うなる。
例えば今日申しますとね、私共昔から、これは目を覚ました時には先生方のお話を、よう聞きよってね、目がさめてから、時に、あゝ今日もお生かしのおかげを頂いて有難い、なんて、本な事そげん有難くなれるだろうかと思いよった、けれどもやっぱり、有難くなくても有難かってもです、それを目が覚めると同時に、お礼を申す事を、ず-っと稽古させてもらいよったらです、いわゆる今朝辺りのところ迄、高められておる事にたまがった。
 本当に、お生かしのおかげを頂くとゆう事がです、今日目が覚めた事を、有難いとゆう事をです、私は本当なものにしていきよるんだと、こう思う。
 その、今日も目覚ましのおかげを頂いた、今日も生きておる事を許されておる、と思うた時にです、有難いものが、言わばこみ上げてくる程に有難うなる。
 この有難いが育っていくかぎりです、死生の安心とゆうものは、必ず生れるとゆう事を、今日私は確信しました、だからこれひとつだけにでも焦点を置いてです、今日生きておるとゆう事が有難い、とゆう事になったら一切がね、もう問題が問題でなくなってくるのですよ、それを段々極めていきよりますと。
 そして、四〇一番とゆう事から、私は たいし一番と頂いた。
四とゆう事は死、〇とゆう字は亡くなる、何も無いとゆう事、それに一番とあるのですから、いわゆる、たい死一番、とゆう事だと思わせて頂いた。 いわゆる死生の大安心なんです。
 そうゆう死生観とゆうものがです、段々出来てくる、そうゆう風にね、私共は教えられた事をです、段々本当なものにしてゆく、研ぎ上げてゆくとゆうところに、愈その事がです、深さ広さを増してくる、いや習うたその事を行じていきよるうちに、仕事が仕事を教えてくれるように、その一つの信心がです、愈次の信心を教えてくれる程しの、おかげを頂いた時です、初めて神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃと、ゆう事になると思うです。
 そうゆうおかげを頂いてゆかねばいけん。
合楽で云われておるところの信心がです、どのような風に皆さん、育っていきよるだろうか、尻切れトンボになっていきよりゃせんだろうか、あゝ本な事、信心なもうこれだと、もうこれに極まったと云いよるけれども、それが何日か何ケ月かは続いてもです、それが育っていっていないとするならば、神も喜び金光大神も喜びとゆう師匠に戻した事になるから、おかげにならんです。
 神も喜び、いわゆる金光大神も喜び、氏子もの喜びとゆう程しのおかげに育っていかなければいけんですね。      どうぞ。